日本の歌手、ジュリーこと、沢田研二(Sawada Kenji)のアルバムと楽曲を紹介。
沢田 研二(さわだ けんじ、1948年6月25日 – 京都府京都市育ち)は、日本の歌手、俳優、作詞・作曲家。本名、澤田 研二。ニックネームはジュリー。
1960年代後半のグループ・サウンズ全盛期からスーパー・スターとして活躍し、ソロとしてのシングル総売上は1,239万枚(1982 – 1991年の9年間は歴代1位の座を保つ)。ザ・タイガース、PYG時代を含めると1,666万枚になる。
1971年11月1日発売のシングル「君をのせて」でソロデビューしたが、オリコン週間チャートでの最高位は23位、累計売上は10万枚とあまりふるわなかった。GSの先輩であったザ・ワイルドワンズの加瀬邦彦プロデュースのもと、十数年にわたって音楽ランキングトップ10にチャートインし続けた沢田のソロ活動のスタートであった。
1972年3月11日発売の「許されない愛」がオリコン最高位4位を記録し、ソロとして初のオリコントップ10入りを果たした。
1973年4月21日発売の「危険なふたり」が65万枚を売り上げソロ初のオリコン1位を獲得、第4回日本歌謡大賞を受賞(歌謡大賞歴代最高視聴率の47.4%を記録)し、ソロとしての人気を確固たるものとした。この作品からスタイリストとして早川タケジが参加し、以降、斬新なファッションが確立されることになった。
翌1974年には「追憶」が58万枚を売り上げ2曲目のオリコン1位を獲得した。
1975年1月にはシングル「愛の逃亡者 THE FUGITIVE」でイギリス、「MON AMOURE JE VIENS DU BOUT DU MONDE」(日本語版「巴里にひとり」)でフランスに進出。フランスでは週間ラジオチャートでトップ4に入るヒットとなり、フランスのゴールデンディスク賞を日本人として初めて受賞する。以降、1978年にかけてフランス、イギリス、ドイツ、ベルギー等でシングル盤を発売した。また、1974年にハワイ、1977年・1978年にグアム、1979年にシンガポール、1980年・1982年に香港でそれぞれコンサートを開催している。
1975年8月21日に発売された「時の過ぎゆくままに」は5週連続オリコン1位、累計売上92万枚を記録し、沢田にとって最大のヒット曲となった。同曲は、沢田との仕事を熱望していた久世光彦が渡辺プロダクションに企画書を持ち込み3億円事件をテーマに製作されたTBSドラマ「悪魔のようなあいつ」の挿入歌で、主演の沢田が歌う劇中歌でもあった。
1ヶ月間謹慎。復帰後、1976年9月に久世光彦(小谷夏名義)の作詞、沢田作曲の「コバルトの季節の中で」を発売したが、活動再開後もNHK紅白歌合戦、賞レースを全て辞退した。
翌年の1977年2月発売の「さよならをいう気もない」では、金色のキャミソールという衣装でテレビに登場。
1977年5月に発売された「勝手にしやがれ」はソロとして4曲目のオリコン1位を獲得。5週1位を保ち89万枚を売り上げた。曲中にかぶっていたパナマ帽を客席に飛ばすというパフォーマンスは、子どもが学校でマネをするほど大きな話題となった。この曲で、第19回日本レコード大賞を受賞。。その他第8回日本歌謡大賞(視聴率46.3%)など、同年の主要な賞レースを独占した。
1978年 「LOVE (抱きしめたい)」は第20回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。同年の第29回NHK紅白歌合戦でトリをつとめる。
1979年に発売された「カサブランカ・ダンディ」ではウイスキーを口にふくんで霧のように吹き、1980年1月1日に発売された「TOKIO」では、電飾が施されたスーツを身に纏い、パラシュートを背負って歌唱する奇抜なパフォーマンスが大きな話題を呼んだ。
同年の「恋のバッド・チューニング」では青や金色のカラーコンタクトを装着するパフォーマンスをみせた。
井上堯之バンドの解散を受け、新たなバックバンドとして1980年にALWAYS、1981年にEXOTICSを相次いで編成。「渚のラブレター」、「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」、「麗人」、「おまえにチェックイン」、「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」というヒット曲は、よりロックテイストに進化していった。「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」は、沢田自身の作曲したシングルとしては最高の36万枚のセールスを記録した。は青や金色のカラーコンタクトを装着するパフォーマンスをみせた。